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出来上がるものの場の景への想像

 東北大学へ来て,三ヶ月、震災の仕事に係る傍らたまに土木の設計演習の授業にたまに参加して聴講する機会をもらっていた.2月初旬には最終発表が行われ,二週間前との完成度を比べると参加していた四班、20人の発表は本当に感動するぐらい頑張っていた.懐かしいなぁと自身の歴史を振り返る機会にもなった.その一方で,出てきた作品に対しての違和感を覚えた.その違和感は先生方が褒めていることへの違和感なのか、作品に対する違和感なのか、ただ直感的には褒めてはいけない様な、なにかものすごく大事なものが欠けている印象があった.先生方が生徒の成果に対して褒めていたことは先生として当たり前の行為でもあるので、話をおいておくと、やっぱり作品に対しての違和感で、今日のこの文章はその違和感に対するメモである.
 作品自体は確かに完成度は高かった.ただ,そこに出来上がるものが本当に出来ることを想像すると,土地の立地・周囲の環境・設計した広場が連携しているようで,連携しておらず,尚かつ一番の問題は対象敷地の設計完成度(やりきった度)は高いけれど,出来上がるものが良い“シーン”を持っているようにははなはだ見えなかった.何か空間を生み出す瞬間に生まれる“シーン”,そこから生まれる全体としての場の景の価値が弱かった.確かに生徒たちは“シーン”を想定した設計・模型の制作は行っており,場の景は存在はしていたが,そこで生まれている場の景は決して率先してつくるべきものではなく、もっと豊かなものを目指すべきだと思った.豊かという漠然とした言葉で逃げるというか、反対の言葉から出てきた言葉だけど、そこで生まれてるシーンって貧しそうと直感的に思った.直感!!以上!でもその直感は恐らく場所と周囲の環境との大きな齟齬から出ている気はする.学部2年生にそんな事を求めるべきではないのかもしれないが,部分への思想と設計が非常に弱いと思ったのであ〜る.
 震災の仕事は主にマスタープランのスケールから建築スケールの提案までサポートをしている.サポートをしているというよりは,建築・土木・都市が近い場所で仕事をしているので,それらの風通しがわりといい中で仕事をしている.そういった環境に身をおいていると,スケールを横断して物事を捉え,どのスケールでも享受されるべき最適解を求める.スケールの行き来の重要性を凄く感じている.それは,都市の話でも、まちの話でも、公園のはなしでも、建築のはなしでも、スケールの行き来する瞬間は多分にあるが,その行き来の重要性を改めて感じるとともに,出来上がる部分への熟度と,場としての景をもっと大切にする必要はある.そして,それを大切に設計をしたいと思っている人間だと自身を自覚をした.
 文章雑だな〜。仕事中なので,また時間見つけて推敲したいと思います.
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.13 2013 考え comment0 trackback0

被災地-東京-観光地


震災直後から、私は日常と非日常という言葉を利用している.体験の順序としては,GW前に被災地に二泊三日で訪れ,GWに観光地へ,そして今東京にいる。

今から記述する。

 東京の地下鉄へのエスカレーターは多くのところで,昇りはまだしも下りは止まっている.利用頻度が明らかに少ないところは,上下ともとまっている.いつも利用しているエスカレーターは空間の半分以上がエスカレーターとそれに関わる付属物、大概エスカレーターは階段と接している側面に2m位の壁が立ち上がっている為、階段を利用するとひどく暗く,狭く感じる。そして,エスカレーターへの侵入を塞ぐのは簡易的なテープを多く見る.いつまでこの状態なのか.いつまでテープなのか.みんなはどう感じているのだろうか.私は都市に生まれた微少の忘れ去られた土地が多数点在して発生した印象を持っている.廃墟の様なイメージだ.日常がいかにオートメーションの世界に巻き込まれ,それが日常を埋め尽くしていた事に本当に違和感を覚える.これが文明かと.季節は変化していく,夏になった時,この状態をどうするのか.未だに先が見えていない様に感じているのは,私だけなんだろうか?そういった事を考えず,今を受け入れそれを日常にしている人は沢山いる.私もそうだ.でも違和感は取り除かれるべきであるので,何かをやらないといけないな.明るいインスタレーションでいいから入り口に置いたりしてみない?テープの光景は毎日見ていてぞっとする。
日常は帰ってくる事はない.移り変わる変化の乏しい日常に大きな変化が来て,それを受け入れ始め,また変化の乏しい日常が訪れる.もとに戻る事は出来ない.でも,今の状況は下っていく一方に感じている.


兄の結婚式を所謂南国で行なって来た.

 もちろんものすごい費用をかけて.それぐらい価値のある時間だったし,いい結婚式だった.震災時、兄・兄嫁は無事であったし,両家族とも無事であった.だからこそ行く事が出来た事を本当に幸せに感じた.
そこには日常,より良い日常が待っている.南国は日本人で溢れていたが,来れなくなった人も要ると思う.そういう日常に私はいた.

被災地

 名取,塩竈,大船渡,陸前高田,気仙沼,石巻,東松島を視察した.津波による被災地,そうでない地域の明確な差が多くの場所で確認をした.今復旧・復興へ向けて色々な人達が動き回っている.あれから二週間一階の浸水被害を受けて,荷物を運びだしていた人達は,住み始めただろうか.話を聞いていても,住んでいた場所に住み続けようとしている人たちは沢山いる.そういった人達に何が出来るのだろうか.私が視察した光景は何だったんだろうか.場所によって全く状況が違う.復旧へ向けての絵を描く段階でない所が多くある事を認識しないといけない.
日常に必死に戻ろうとする人がいる.でも眼前の眺めはどんな長い道のりなのか検討もつかない光景である.海をただ見つめる漁師がいる.そういう日常を送ることしか出来ない人がいる.

気仙沼
 気仙沼 2011/04/24撮影

 原発は今も漏れ続けている.でも都市の問題は日常の微細なところに表れているのではないか.日常を疑ってみる事を震災を通して学んだし,日常に慣れていく事をしてはいけないと感じている.何もわかっていないし,わからない.みんなは今何を考えているんだろう.
.14 2011 考え comment0 trackback0

「景感」デザイン

景感とは個人個人がもつ風景,
具体的に身体・脳に刻まれた幾つかの写真・映像を指す.
恐らく人は幾つか忘れる事のないイメージを持っている.
直感的に良いと感じた風景,誰かと何かを一緒にした体験性の強い風景,
旅先でのスケッチした眺め.それは風景として各々が持っている.
 
 題名に挙げた景感デザインは,
言葉として主体性をとり入れたものである.
風景・景観・眺め・光景の言葉には人を内包している言葉ではあるが,
言葉単体,漢字には基本的には含まれていない.

そういった風景として人々に残る場所を「景」とし,
「景」をうける人の感覚・感性を「感」とし,
「景感」をデザインする.

わさびた


「景感デザイン」である.
なによりもゴロの感覚・漢字の組合わせが個人的に好きである.

*写真は長野のわさびたの眺め.これからこの言葉を考えた.
.14 2011 考え comment0 trackback0
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Teppei Kobayashi

Author:Teppei Kobayashi
人間的に魅力のある人が一人でもいれば、
その場は凄く魅力的になる。
それに変わる場を設計したい。
物理的に。

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